THINK*思想編* 古代思想*古代メソポタミア文明
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やすねえ♥アテンダー こと 小林安子です
新シリーズTHINK*思想編*古代文明*古代メソポタミア文明は
THINK=思考・思い・考えの大前提となります
最古の文明*古代メソポタミア文明時代の人々と
現代に生きる私たちの思考パターンについて
どんな共通性・類似性・異質性があるのかを
考察していきたいと思います。
まずは、古代メソポタミア文明の歴史からみていきましょう!!
古代メソポタミア文明
- 古代メソポタミア文明‥紀元前3500年前ごろにメソポタミアに生まれた複数の文明を総称する呼び名。世界最古の文明とされてきた。文明初期の中心となったのは民族系統が不明のシュメール人。
- メソポタミア…チグリス川とユーフラテス川の間の沖積平野。現在のイラクの一部。
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地域的には、北部がアッシリア、南部がバビロニアで、バビロニアのうち北部バビロニアがアッカド、下流地域の南部バビロニアがシュメールとさらに分けられる。
- 南部の下流域であるシュメールから、上流の北部に向かって文明が広がっていった。土地が非常に肥沃で、数々の勢力の基盤となったが、森林伐採の過多などで、上流の塩気の強い土が流れてくるようになり、農地として使えない砂漠化が起きた。
- 古代メソポタミアは、多くの民族の興亡の歴史である。 例えば、シュメール、バビロニア(首都バビロン)、アッシリア、アッカド(ムロデ王国の四つの都市のひとつ)、ヒッタイト、ミタンニ、エラム、古代ペルシャ人の国々があった。古代メソポタミア文明は、紀元前4世紀、アレクサンドロス3世(大王)の遠征によってその終息をむかえヘレニズムの世界の一部となる。
*特徴*
- チグリス・ユーフラテス両河は水源地帯の雪解けにより定期的に増水するため、運河を整備することで豊かな農業収穫が得られた。初期の開拓地や文化から始まり、エジプトなどよりも早く農業が行われた地域として知られている。
- 先史時代BC6000~5300年頃北メソポタミアで興ったハラフ文化では、乾燥地農業が行われ、家畜も飼育していた。BC5000~4000年頃南メソポタミアから大きく広がったウバイド文化では運河網が広がり、灌漑農業や家畜の飼育が定住性の集落に広がり、急速な都市化がおきて交通網が伸展していた。
- ジッグラトと呼ばれる階段型ピラミッドを中心に、巨大な都市国家を展開した。
- 農耕の面でも肥沃な大地・整備された灌漑施設・高度な農耕器具により単位面積当たりの収穫量は現代と比較しても見劣りしなかったという。
- 旧約聖書との関連も指摘されており、始祖アブラハムはメソポタミアの都市ウルの出自とされている。エデンの園はメソポタミアの都市を、バベルの塔はジッグラトを、ノアの洪水は当地で突発的に起こる洪水を元にした逸話との説がある。
- 暦は太陰太陽暦を用い、1週間を7日(7曜)にしたのも彼らといわれる。暦と共に占星術(天文学の雛形)も発達し、「可ルデア人の智恵」と呼ばれた(カルデアはメソポタミア地域の別名)。
- 時間の単位 六十進記数法もメソポタミアで生まれたものであり、現在も用いられている。
- 金属の鍛錬も知っていたとされている。
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文字は象形文字を発展させた楔形文字を創始し、後世の西アジア諸国のさまざまな言語を表すのに利用され、記録媒体は粘土板が用いられた。楔形文字によって書かれたものとしてはハンムラビ法典がよく知られている。ミタンニのアッカド語は外交用語として用いられ、エジプト第18王朝の外交文書(アマルナ文書)に、その言葉で書き記されたものが残っている。
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経済は、貿易の交易範囲は広大で、エジプト文明やインダス文明と交易があったことも推測される。シュメールやバビロニアでは食物をはじめとする必需品を貯蔵して宮殿や都市の門において分配し、バザールで手工業品の販売を行なった。タムカル厶と呼ばれる身分型の交易者が存在し、仲買人、代理人、競売人、保管人、銀行家、仲裁人、旅商人、奴隷取締官、徴税吏などを担当した。バビロニアにおいては対外市場は存在しなかったため、キュロス2世は、ギリシア人の市場制度を理解せず、非難した。また、ハンムラビ法典には、損害賠償、負債取り消し、報酬、等価概念についての記述がある。
*歴史*
- メソポタミアの人々は2つのグループからなっている。東方セム語派のアッカド人と孤立した言語を話すシュメール人である。(アッカド人は、後にアッシリア人、バビロニア人として知られるようになる。)
- 彼らは統一国家を持つことはなく、しかし様々な都市国家や王国を形作った。
- まず紀元前4千年紀にシュメール人が現れる。彼らが先史時代に他の地域から移り住んできたのか、この地域にもともと暮らしていたのかはわかってない。彼らはメソポタミア南部、後にシュメールとして知られるようになる地域に定住し、セム族のアッカド人の文化に大きな影響を与えた。
- およそ紀元前3500年頃のものとして、最初のメソポタミアの宗教の痕跡が筆記の発明とともに確認できる。
- 当時シュメール人は驚くほど先進的だった。筆記は言うに及ばず、原始的な数学、車輪、天文学、占星術、法律(タナハ)、組織立てられた医学、先進的な農業そして建築、暦などを発明した。彼らはウルク、ウル、ラガシュ、イシン、キシュ、ウンマ、エリドゥ、アダド(Adad)、アクシャク(Akshak)、シッパル、ニップル、ラルサなどの都市国家を作った。
- 紀元前2800年ころの王のリストにアッカド語の名前が初めて現れる。なおもシュメール・アッカド文化のなかでシュメール人が支配的な影響を持ち続けたが、紀元前2335年にサルゴンのアッカド帝国が誕生する。アッカド帝国はメソポタミアを統一し、アッカド人とシュメール人をひとつの支配のもとに置いた。
- 少しずつシュメールとアッカドの文化と神々の習合がおこり、それに伴い少ない神々を信仰していたアッカド人がシュメールの持ち込んだ神々に重要な役割を担わせるようになった。
- 紀元前2335年頃、サルゴンが全メソポタミアを征服し、アッカド人とシュメール人を世界で最初の帝国に組み入れた。そしてその帝国の支配はイランの歴史、レバント、アナトリア半島、カナン、アラビア半島におよんだ。アッカド帝国は2世紀の間続き、経済の停滞と、内乱、そして北東のグティ人の侵入により崩壊する。
- その後シュメールのウル第三王朝が復活を果たすが長くは続かず、メソポタミアはいくつものアッカド人の都市国家に分裂する。
- 紀元前2100年頃メソポタミア北部ではアッシリアが勢力を盛り返し、南部ではイシン、ラルサ、エシュヌンナをはじめとするいくつもの王国が林立していた。
- 紀元前1894年、小さな都市国家としてバビロンが興る。バビロンは侵入してきた西方セム語派のアムル人の興した都市であるが、彼らの支配したバビロンの歴史の中の短い期間に限られる。
- この後、いずれかの時期にシュメール人はアッシリア・バビロニア社会吸収されてしまい、まったく姿を消す。紀元前25世紀の後半からアッシリア人の王が続いていることが確認されている。彼らはメソポタミア北部とアナトリア半島の一部、そして北東シリアを支配した。
- 紀元前1750年頃、アムル人のバビロンの王、ハンムラビがメソポタミアの大部分を支配した。
- バビロニア帝国はハンムラビ王の死後、アナトリアの山岳民族、カッシートの侵攻を受けて崩壊する。その後カッシートはバビロンを500年支配した。
- ハンムラビ以前の紀元前20-18世紀に覇権を握ったアッシリア帝国がミドル・アッシリア帝国(紀元前1391-1050)として再び権勢を誇る。アッシリアはヒッタイトとミタンニを打ち負かし、エジプト新王国を近東から引き上げさせた。ミドル・アッシリア帝国はコーカサスから現代のバーレーンまで、キプロスからイラン西部までその版図を広げた。
- ネオ・アッシリア帝国(紀元前911から紀元前605)は紀元前10世紀から紀元前7世紀後半にかけて、当時の歴史上最も強力かつ広大な帝国を作り上げた。
- 帝国は西キプロスから東は中央イラン、北はコーカサス山脈から南はエジプトのヌビア、そしてアラビア半島に及んだ。アッシュールバニパル、トゥクルティ・ニヌルタ2世、ティグラト・ピレセル3世、シャルマネセル4世、サルゴン2世、センナケリブ、エサルハドンら皇帝のもと、この帝国の拡大はメソポタミアの文化と宗教を遠方へと広げる一助となった。ネオ・アッシリア帝国の時代にはアラム語が帝国内でリングワ・フランカとしての地位を築いていた。アッカド語で残された最後の記録は紀元後78年に書かれた天文学に関わる文献で、アッシリアで見つかっている。
- バビロンに入場したカルデア人のナボポラッサルが紀元前625年、ネオ・アッシリア帝国に対し攻勢にでる。バビロニア人がメデ人(Medes、イラン系民族)と手を結ぶと、616年にはメディアのキュアクサレス2世がナボポラッサルに同盟を持ちかけた。最終的にバビロニア人、カルデア人、メデ人、キンメリスキタイ人、ペルシア人、キンメリア人の連合軍がネオ・アッシリア帝国を攻撃した。この攻撃の後ネオ・アッシリア帝国は内紛の時代に突入、その後紀元前605年にアッシュール・ウバリト2世が死ぬとこの帝国は滅亡した。
- 新バビロニアはかつて主従関係にあったアッシリアの帝国の大部分を受け継ぎ、その支配の下でバビロンは短い繁栄を誇った。しかし最後の王ナボニドゥスはほとんど政治に興味を示さず、月の神であるシンへの信仰に夢中になり、実権を少しずつ息子のベルシャザルへ譲っていった。加えて東のペルシャとメデ人が勢力を拡大していくと新バビロニアは紀元前539年、アケメネス朝に飲み込まれ、メソポタミア・ネイティブの王朝が途絶えることになった。
- 紀元前539年、メソポタミアはアケメネス朝に征服され、キュロス2世の支配を受ける。これにより3000年に及ぶセム語派メソポタミア人の近東支配は終わりを告げることとなった。ペルシア人は土着の文化、宗教を禁止することはなかった。アッシリアとバビロンは自主独立体として存在し続けたが、カルデアは消滅した。さらにアッシリアに関しては紀元前522年と紀元前482年にペルシャに対する大規模な反乱を起こせるほど力を持っていた。
- 紀元前330年、古代ギリシアマケドニア王国のアレクサンドロス3世がペルシアを打ち破り、メソポタミアを支配した。アレクサンダーが死ぬとセレウコス朝によってヘレニズムの影響がメソポタミアにもたらされた[9]。アッシリアとバビロニアは後にパルティア(バビロニア)、古代ローマ(アッシュリア属州)、サーサーン朝(アシュリスタン(Asuristan))のそれぞれ州となった。バビロニアはパルティアの時代に同化し、アッシリアは残った。