やすねえ♥アテンダーのTHINKブログ

私たち人間の[THINK=思考・考え][EMOTION=感情・情動]の仕組み・原因について、また 私たちの実生活や生き方・個人や人生への影響について、あらゆる角度からの観点で書いていきます。よろしくお願いします。

THINK*思想編*古代思想*古代メソポタミアの宗教

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                                 やすねえ♥アテンダー こと 小林安子です

 

                 

                      THINK*思想編*古代文明古代メソポタミア文明シリーズ

         THINK=思考・思い・考えの大前提となります

          最古の文明*古代メソポタミア時代の人々と

          現代に生きる私たちの思考パターンについて

          どんな共通性・類似性・異質性があるのかを

             考察していきたいと思います。

                                               

   古代メソポタミア文明・歴史についてはこちらをごらんください。      

yasuneeattender.hatenablog.com

 

 

  次は、古代メソポタミアの宗教から思想をみていきましょう!!

         

メソポタミアの宗教

【1】シュメールの信仰

  • 文字の発明までのシュメール神話は口承によって語り継がれてきた。初期のシュメールの楔形文字は記録手段にすぎなかったが、初期王朝時代になると賛歌という形の宗教文学に、そしてナム・シュブと呼ばれるまじないに使われるようになった。
  • 建築は、初期のシュメールの都市国家では寺院は一段高い場所に造られた小さいワンルームの物件だった。その後初期王朝時代に複数の部屋とテラスを持つようになった。シュメール文明が衰退するころにはジッグラドメソポタミアの宗教の寺院様式としてふさわしいものとされるようになる。寺院は文化、宗教、政治の中心として機能し、およそ紀元前2500年ごろにルガル(軍事的コンテクストを背景に持つ王)が生まれると政治と軍事の中心は宮殿に分けられた。 
  • ルガルの登場まで、シュメールの都市国家はエン(神官)の組織による事実上の神権政治が行われていた。神官たちは都市国家の文化、宗教の維持を担っていた。彼らは人と自然の力とを繋ぐ媒介者と考えられていた。神官は寺院に住まい、都市の存亡を左右する大規模な灌漑事業を含む都市国家の諸問題に取り組み、統治を行った。
  • 宗教行事は、ウル第三王朝時代、シュメールの都市国家ラガシュは62名のラメンテーション・プリースト(ラメントを行う神官)を雇っており、それぞれには合唱団と楽団があわせて180名ついていたといわれている。

【2】アッシリアの政治に見られる宗教

  • メソポタミアに興った多くの都市国家や王国同様、元来アッシリア君主制ではなく寡頭制をとっていた。権威はその都市に帰属し、政体は3つの統治機関を有した。すなわち長老院、世襲の支配者、エポニムである。
  • 支配者は長老院を取り仕切り、その決定を執行する。この支配者はアッカド語でいわゆる王を指す言葉(šarrum)では形容されない。アッシリアにおいて「王」は都市の守護神であるアッシュール(Ashur)のための言葉であり、支配者はその大祭司である。支配者は「アッシュールの執事(iššiak Assur)」と呼ばれ、この執事という語はシュメール語のエンシ(Ensí)から借用された。3番目の統治機関、エポニム(limmum)はアテネアルコン執政官に似た役職で、毎年くじによって選ばれ彼の名はその年の呼び名になった。
  • 初期のアッシリアに見られたこのエポニムの制度、アッシュールの執事の習慣は、その後も儀礼的な痕跡としてアッシリア君主制の中にずっと生き続けた。

 

【3】ネオ・アッシリア帝国の宗教

 

【4】アケメネス朝の宗教

 

【5】多神教一神教と統合宗教

メソポタミア土着の信仰~キリスト教ユダヤ教マニ教

 

【6】イスラム教徒の流入

【7】公共の信仰

  • メソポタミアの街は神々の家と考えられており、それぞれの街には対応する守護神が定められていた。
  • 廟に関しては郊外に造られることもあったが、知られているかぎりすべての神殿は街の中に造られた。
  • 神殿は建材として煉瓦が用いられ、ジッグラトとして建てられた。ジッグラトは空にそびえる階段状のステージと形容することができる。ジッグラトの持つ意義は、神々が天国と地上を行き来するための階段を象徴しているという見解で概ね統一されている。そのため、実際には神殿の上の方で儀式を行うこともあったようではあるが、神殿の全体が巨大な祭壇であると見ることができる。他には、神殿を死んだ神がよみがえるまで埋葬されるとされる宇宙の山と見立てる説もある。例えばエリドゥにあるエンキの神殿など、いくつかの神殿には果樹園があり、そのなかに一本の聖なる木(Kiskanu)が存在した。この聖なる木は庭師マスターの役割を担う王が執り行う儀式の中心地となっていた。
  • メソポタミアの神殿はもともと神の住まう場所として建てられた。神々はそこで街や王国のための裁定を行うと考えられていた。
  • 神々の存在は聖像に象徴され、聖像は独立した部屋に安置された。 聖像の中に神を宿すという考え方は、神を存在させる手段として理論立てられていたようである。 これはエッラの詩(How Erra Wrecked the World)からも明らかである。この話の中でエッラはマルドゥクをだまして聖像から追い出している。聖像は夜を通して行われる儀式によって清められ、命を吹き込まれる。そして口が開かれ洗われる。これにより神々は見、そして食べることができるようになる。聖像に神が満足すればその神が宿ることになる。これら聖像のために時には余興が催され、また狩に連れ出されることもあった。
  • 神殿には神のための居住空間が設けられ、キッチン、台所用品、寝室、神の家族のための部屋が用意された。中庭には来客者用が体を清めるための溜池とそしてチャリオットを引く馬や家畜のための小屋まであった。
  • 一般的に奉仕(dullu)により神は良い状態を保つことができると考えられていた。聖像は着飾られ、日に2回の饗宴が催された。神の食事中はカーテンがおろされた。これは王が食事の様子を大衆の目に晒してはならないという習慣と同様である。ときには王が神の相伴に与ることもあった。同様に神官たちが同席することもあったであろうと考えられる。神はお香を楽しむものだと考えられており、聖像の前ではお香が焚かれた。
  • 日常的に供物が捧げられ、人間の生贄の代替品(pūhu)、あるいは代用品(dinānu)として動物が捧げられた。これらの習慣には神々や悪魔の怒りの矛先を生贄へとそらす目的があった。それぞれの神ごとに特別な日取りが設けられており、それぞれの儀式が執り行われ、供物が捧げられた。多神教メソポタミアでは毎日が何らかの神を祝う日となっていた。
  • 王は理論上は宗教指導者(enuまたはšangū)としての役割を担っており、たくさんの専門的な神官とともに神殿の中で様々な神事をこなした。
  • 神官らは人と神を結びつける媒介者として、それぞれの役割を負った。すなわち監督を担うもの(šešgallu)、悪魔や魔術師による人の蒙った穢れを清めるもの(āšipu)、神殿を清めるもの(mašmašu)、音楽によって神の怒りを鎮めるもの(kalū)、そして女性の歌手(nāru)と男性の歌手(zammeru)、技術者(mārē ummāni)、帯剣したもの(nāš paṭri)、占い師(bārû)、告解者の(šā'ilu)、そしてその他である。

 

【8】個人の信仰

  • 個々の人々はそれぞれ個人的な神(a personal deity)に敬意を払っていた。他の神々と同様個人的な神々も時とともに性格を変え、また名前が与えられたり描写されることも稀なので初期の実情に関しては不明な点が多い。
  • 紀元前3千年紀の中ごろ、何人かの支配者は特定の神、あるいは神々を個人的な守護神としていた。紀元前2千年紀には個人的な神が大衆によりそったものとなった。
  • 個人的な神との関係は祈りとその神の彫像を慈しむ行為によってはぐくまれるとされており、より緊密な関係を築いたもののために機能するようになった。
  • 古代メソポタミアのいくつもの祈りの詩が資料として今日まで残っており、それぞれの祈りには特定の神を特別に賞揚する内容が見られる。
  • 歴史家のボッテロ(J. Bottéro)はこれらの詩は、深い尊敬の念と帰依の心、そして超自然的な存在によって古代の信徒の心に喚起された圧倒的な感情を表している、と述べている。一方でこれらの詩からは、手放しに神々を褒め称えているというよりもむしろ、畏れを含んだ感情を読み取ることができる。
  • 個人の幸運、病気や悪魔からの守護、そして社会的成功、才能や個性までもが彼らの個人的な神に左右されると考えられていた。さらに踏み込んで個人の経験するすべては彼の個人的な神の身に起こったことの反映であるとさえ考えられた。もしも個人的な神をないがしろにすれば悪魔は自由にその人に近づき危害を加える。一方で敬意を払えば彼を良く導く指導者となると考えられた。
  • メソポタミアでは悪魔の存在が信じられており、それらを退けるために庶民の間でもおまじない(šiptu)が行われていた。
  • 実際にはシュメール語にもアッカド語にも「悪魔」を表す一般名詞は存在せず、害をなす者、危険な者、あるいは力とだけ言及され、そして世界に「悪意」が存在するということを説明する手段として用いられる。悪魔は無数に存在し、神々をも攻撃の対象とすると考えられていた。
  • 悪魔とは別に死者の霊(etimmu)の存在も広く信じられており、いたずらをする存在として見られていた。そのためお守りが存在し、時には霊のいたずらに対しエクソシストāšipuあるいはmašmašu)が呼ばれることもあった。
  • 病気は悪魔に原因があると考えられ、おまじないや儀式が、ときには類感呪術が治療のために行われた。悪魔の像を用いて捕縛するという試みも行われていた。患者の頭の上に悪魔の像を置く。すると悪魔は像の方へ移ると考えられており、儀式の後に像が破壊された。守護精霊の像も作られており災厄を退けるために門に飾られた。
  • 占いもまた庶民の間で広く行われていた。メソポタミアでは運命は神々によってすでに定められており、予兆の観察や占いにより運命を確かめることができると考えられていた。神々は口述に拠らない形での「言葉」(amatu)や「命令」(qibitu)により彼らの意思を伝えるものとされ、それらは出来事や事件に向かう一連の流れのなかに現れるものと考えられていた。占いには様々な手段が用いられた。水に浮かぶ油を読む占い(lecanomancy)、生贄の内臓を読む占い(extispicy)、鳥の振る舞いを読む占い(augury)、天体的な自然現象を読む占い(占星術astrology)、夢を読む占い(夢占い)などが例として挙げられる。
  • これらの占いには2種類の神官が携わった。すなわち質問者(sa'ilu)と観察者(baru)である。彼らより身分の低い神官であるマフ(mahhu、恍惚状態で言葉を伝える)が関わることもあり、これには魔術が用いられていた。

 

 【9】道徳・美徳・罪

  • 古代のペイガニズムは、道徳よりも義務や儀式に焦点を当てることが多いが、メソポタミアの場合、今日まで残った祈りの詩や神話の中から数々の一般に受け入れられていた道徳を拾い集めることができる。
  • メソポタミアでは、人は神により造られたものとされ、神々は命の源であり、したがって神々は病気や健康、人の運命さえも左右する力を持つと信じられていた。子供は神からの贈り物と考えられていたことが個人の名前から伺い知ることができる。
  • 人は神々に仕えるものとして造られた。すなわち神は長(belu)で人は使用人或いは奴隷(ardu)であり、人は神を畏れる(puluhtu)者であり神に対して身を弁えるものと考えられていた。
  • 義務は宗教、儀式の主要な特性と考えられていた。場合によっては祈りの詩からは精神的に親密な関係が読み取れることもあり、または信仰する神から別の神へ乗り換えるちょっとした改宗のようなことが行われている様子も伺える。一般的に神々への信仰に対する対価は成功や長寿といった形で現れる。
  • 一方で罪はヒツ(hitu、失敗)、アヌ(annuまたはarnu、反抗)、キラツ(qillatu、罪)という語で表現され、反抗に力点を置いて描写される。 罪とは「自分本位に生きる(ina ramanisu)」ことを望む気持ちである、という文脈から語られることもある。罪とは神々の怒りを買う行為であると説明されることもある。
  • 罰は病気や不運を通してもたらされると考えられており、必然的に無意識の罪が語られ、人は知らずに罪を犯しうるものだという考え方が存在した。賛美歌には具体的な罪が登場することは稀である。
  • この報いの考え方は個人にとどまらず国や歴史にも当てはめて考えられた。メソポタミアの文学からは戦争や自然災害が神からの罰として扱われている様子を、また王がこれらを判断の基準として使う様子を伺うことができる。
  • 罪や美徳の捕らえかたに関してイスラム教やユダヤキリスト教との類似性が見られる。
  • 性に関してはかなり寛容な考え方を持っていた。ことバビロンでは自由な性の表現が文明によってもたらされる恩寵と捉えられており、同性愛異性装、そして娼婦、男娼が受け入れられていた。メソポタミアで広く信仰されたイナンナイシュタルには、荒々しく熱狂的な舞踏と血なまぐさい儀式を伴う、性的逸脱の祭祀が捧げられていた。ここで言う「性的逸脱」には、身体的なものと社会的なものとの両方を含む。「イナンナに禁じられているものは何もない」と考えられ、規範的な性の在り方を侵犯する表現を祭祀の中で、敢えて行うことによって、「人目を気にしている日常の世界から、忘我の境地・恍惚の世界へ」と至ることができると信じられていた

 

 【10】死後の世界

  • 古代メソポタミアの人々は死後の世界は、この世界の下に広がっていると信じていた。アラル(Arallû)と呼ばれたり、ガンゼル(GanzerあるいはIrkallu、偉大な地下の意)と呼ばれたりと不定であるが、社会的地位、生前の行いに関わらず死んだ者はみなそこへ行くと信じられていた
  • キリスト教のヘル(地獄)とは違い、メソポタミアの冥界は罰でも報いでもなかった
  • 冥界でも生前と同じ状態ですごしているというわけではなく、死者は非力な幽霊として扱われる。イシュタルの祖先が冥界へ行く神話では塵が彼らの食べ物、粘土が彼らの栄養であり、暗闇に暮らし、光を見ることはない、と語られる。いくつかの神話、たとえばアダパ(Adapa)の神話などでは、おろかさのためにすべての人間は死を免れない。永遠の命は神々のみが所有する、と語られている

 

 【11】終末論

メソポタミアの終末論を持っていたとする推測は、大部分がベロッソスの著述によるもので、彼は、メソポタミア人は世界が12のサー(sar、3600年)を12回繰り返すと信じている、と記述している。つまりメソポタミア人の少なくとも一部は世界は518,400年で終わりを迎えると信じていたことになる。終末の後に何が起こるかに関してはベロッソスは書き残していない。

 

                                                                                                             (Wikipedia

 

 次回は、THINK*思想編*古代思想*メソポタミア神話から思想をみていきます!

    おたのしみに♪