無意識の意識化(1)認識論的整理について
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やすねえ♥アテンダー こと 小林安子です
新5回シリーズは、無意識の意識化について、
下記内容で それぞれのシリーズごとに書いてみたいと思います。
(1)認識論的整理
(2)存在論的整理
(3)脳科学的整理
(4)心理学的整理
(5)現象学的整理
[無意識の意識化(1)認識論的整理]について
認識論って哲学のひとつだけど、実は 西洋では、いろんな人がいろんな考え方を主張して、認識する対象が どんどん変わってきちゃったり、認識をどう測って良いのか、客観的なモノの観方が発見できずに、長いあいだ内観するしかなかったり、色々とありました。。。さてさて、どうなることやら。。。
そのように、無意識をどう認識して意識化するのかは、人間がずっと知りたくて追求してきているのに、今までとっても難しかったんですね。
認識論的整理5回シリーズで、無意識を意識化するのって どうやってするの?今までどうしてそんなにむずかしかったの?認識論的な観点で、そのなぞをひも解いていきます!!
既存*認識論*概要
- 認識論は、哲学の1部門。知識論とも呼ばれる。
- 思想→哲学→認識論
- 哲学以前には、思想がある。
思想とは
- 考え・思い・意見。まとまった体系のあるもの。
- 大別すると、西洋思想と東洋思想がある。
- 西洋思想は、キリスト教、ユダヤ教・一神教思想・二元論的・絶対的・キリスト教の影響が強いが共有性があるので知らなくても理解できる・わけて認識する・自然に従わせる意志・理性・知性
- 東洋思想は、インド思想( バラモン教、ヒンドゥー教、仏教)、中国思想(道教、儒教)・一元論的・相対的・宗教や文化と一体となっているので それを理解しないとわかりにくい・あるがままに認識する・自然と共存する意志・感性
哲学とは
- 思弁的方法論。客観性の保証が全くない内観法を使用。
- 科学と科学以外に分けられる。
- 科学の方法論は、仮説を立て、実験し、検証する。
- 科学以外を、真理論、認識論、存在論に分けて整理する。
- 西洋哲学は、基本的に存在論。ヨーロッパ哲学、イスラム哲学。
- 東洋哲学は、基本的に認識論。中国哲学、インド哲学、日本哲学。
- 絶対的存在の想定型、主観と客観の対峙型、全体的なシステムの想定型の3つに分けることが出来る(貫成人)
認識論とは
- 認識論は、どのようにすれば真理を知ることができるのかを考えるもの。
- 認識論は、認識・知識・真理の性質・起源・範囲について考えるもの。
- 認識論は、人の外の世界を感覚を通じていかに認識していくかが問題視される。
- 認識という行為は、人間のあらゆる日常的、あるいは知的活動の根源にある。
- 存在論は、なにがどのように存在するかを考えるもの。
- 存在論は、認識の成立根拠と普遍妥当性を論ずることである。
- 認識論には、哲学的認識論と、科学的認識論がある。
- 19世紀末、認識論の一部が、哲学から心理学という学問を成立させる。
- 心理学初期は、内観や内省を方法論として、思弁的方法論を使用。
- 実践心理学は、思弁を排し客観的、科学的方法論をもとにした。
- 認識論の一部は、心理学に取り込まれていった。錯覚現象などが研究対象になった。
- 実験心理学では、データの統計的処理では科学的であったが、なぜ錯覚が生まれるかというメカニズムの解明では、仮説を立て実験データとの照合を論じてはいたものの、その仮説自体はやはり思弁に過ぎなかった。
- 人間の主観を排し、実験動物を用いた観察可能な行動のみを研究対象とする一派も存在したが、人間の認識は研究対象から外された。
- 認識論の問題は比較的最近まで客観科学化されずに哲学の領域にとどまり続けた。
- 認識論と存在論の2つの世界は、脳科学の進歩によって急速に大きく解明しつつある。
認識論で扱われる問い
- 人はどのようにして物事を正しく知ることができるのか。
- 人はどのようにして物事について誤った考え方を抱くのか。
- ある考え方が正しいかどうかを確かめる方法があるか。
- 人間にとって不可知の領域はあるか。あるとしたら、どのような形で存在するのか。
今までの認識論
- 思弁的な内観や内省が主流で、客観的に 認識メカニズムを解明できずに規定できなかったことが問題とされていた。
- 錯覚現象を客観的に 解明していく方法論を発見することができなかったことが問題とされていた。
今の認識論=心理学
- この2つの問題については、脳科学の進歩によって 、脳の認識メカニズムについては、解明することができるようになってきている。
- 人間にとっての不可知の領域につては、科学的な客観的検知では、まだ明確には、解明されていない。
- 2015年6月 量子レベルでの 観測(認識)に関する、オーストラリア国立大学の量子論研究者による研究発表がありました。「あなたが見ていないのならば、現実は実在しない」と発表されています。
[単一原子とホイーラの延滞選択思考実験(ゲダンケン・エクスペリメント)]
論文が掲載されているサイトはこちら。
http://www.nature.com/nphys/journal/v11/n7/full/nphys3343.html
世界的な科学誌『Nature Physics』に掲載されたこの論文、物理学の専門的な理論や概念は一般人には難しく感じますが、実験に当たった准教授の次の言葉は、改めて量子の世界のシンプルな本質を明確に物語っています。
"It proves that measurement is everything. At the quantum level, reality does not exist if you are not looking at it," said Associate Professor Andrew Truscott
〈観測が全てであることを証明している。量子のレベルでは、あなたが観ていないのならば現実は存在しない。〉
- 思弁的方法論にとどまりがちな 認識論も、ついに人間の脳機能の範囲に関して、科学的な客観的検知といえる研究発表によって解明されつつあることもあると言えるのではないでしょうか?
- なぜ錯覚が生まれるかというメカニズムの解明については、脳の仕組みと関係があります。錯覚現象については、脳科学的整理で取り上げたいと思います。
- 人間にとっての不可知の領域については、脳で認識できる範囲の外になります。
- 認識論の大前提の質問の対象が真理→自然現象→人間へとすり替わってきています。解明しようと追求する主体は人間であり、認識主体は、人間の脳機能に依存しています。その脳機能の中で創った存在が実在であるかの考えを中心軸に、考えようとしているところに客観性を求めるのは、無理があるのです。
- 脳で認識できる範囲のものも、脳機能的に、記憶がのこるものと、記憶としては残らないが、無意識の領域に残るものと、意識しなくてもできるように小脳にコピーされて条件反射のようになるものがある。
- 西洋思想で言われている霊魂や魂、大乗仏教で言われている阿頼耶識、心理学で言われている集合無意識が、脳機能では なかなか認識できないが、内観や内省では発見されている。それが客観的・科学的ではないため、思弁的方法論にとどまってしまうが、そもそも、科学でいう客観が脳機能を使って認識する範疇にとどまっている存在論出発である認識だというところに、そもそもの限界がある。
- 更に、人間の不可知の領域は、魂・霊魂・阿頼耶識・集合無意識の外の領域、又は、更に奥底の深い領域であり、いくら脳の機能を駆使しても、その源泉・ソース・根源を認識することはできない。
- そもそも、認識論の問いの大前提が西洋哲学によって客観性を求め、数式のように共有性がある確認方式・再現方式を求めたために、人間共通の脳機能で認識できる範囲にとどまっていたため、問いに対する答えが求められていない現在地である。
つまり、人間が 不可知な領域は、脳機能では認識できないけど、人間は その可知領域を認識できる術があるのかを知りたかった。もともと求めていたのは、その不可知領域のことなんですね !!
それはそれは、ご苦労様でしたということで、
だんだんいろんな人のいろんな考えが出てきて、対象が自然になったり、人間になったりしてすり替わっていってしまって、問いに対する答えではなくなってしまったことに気づいていなかったんですね!!
人間の認識メカニズムは人間の脳機能によって行われるので、人間の脳機能を使って人間の認識メカニズム自体を観測しようとすることにも、そもそも無理があります。客観的に観測したいなら、脳の外へでないと、脳の中のことは客観的には観えません 。ここがまず、今までの認識論の盲点ですね !!
認識論的整理5回シリーズで、認識論的観点ひもといていきますね♥ おたのしみに♪
THINK=思考*思い*考え について 私たち人間は、なぜ考えるのでしょうか?私たちの考えの正体とは何なんでしょうか?その考えはどこからどのように生まれてくるのでしょうか? - やす
THINK
2017/03/22 22:25
yasuneeattender.hatenablog.com
THINK*思想編*古代思想*古代メソポタミアの思想
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THINK*思想編*古代思想*古代メソポタミア文明シリーズでは
THINK=思考・思い・考えの大前提となります
最古の文明*古代メソポタミア文明時代の人々と
現代に生きる私たちの思考パターンについて
どんな共通性・類似性・異質性があるのかを
考察していきたいと思います。
今回4回目は、古代メソポタミアの思想に見られる思考パターンの考察です。
については こちら ↑ を読んでみてください。
では、さっそく、古代メソポタミアの人々の思想を考察していきましょう!!
古代メソポタミアの思想
*考察*
~優れた最古の文明:西洋思想と東洋思想の土台となった思想が生まれた背景~
- 時空間:ほかの文明が発達していない時代に、文明を開花・発達させるにふさわしい肥沃な土地や、先史時代から南北民族や周辺民族が高い水準の技術をもち、文化交流の情報伝達基盤があり、安定的に様々な文化が取り入れやすい関係性や条件が整っていた。
- 存在:神を中心とした思考パターンを構築し、神に対する人間としての存在を規定した。宗教は多神教。各都市・国・個人が守護神を持つ。”街は神々の家であり、神殿は街の守護神の家である”と考えられていた。神殿を中心とした神官が統治する神権政治にて都市国家が発展し、宗教的概念が発達した。多数の都市国家が形成され争いが絶えなくなると軍事的要素が宗教概念に影響するようになった。神との関係性の規定により、思考パターンが固定化されていった。
- 関係性:シュメール人とアッカド人との出会いと協力関係構築によって、様々な優れた言語や知識・技術、宗教、多神教の神々を習合させていった。都市国家の発達と多数の形成により、都市国家間や民族間の交易や争いが増えていき、さらにあらゆる文化の習合や融合がおきていった。
- 思考パターン・規定:都市国家や統一国家では、神・王・神官・民の役割を明確にして統治していくことで、様々な思考パターンが体系化され、細かく規定されていった。
- 思想体系・発展・影響:多神教(ギリシャ神話、エジプト神話、インド思想)、一神教(ジャイナ教、ユダヤ教、キリスト教)、統合教(マニ教、イスラム教)へ影響を与えた。
古代メソポタミア文明で構築された思考パターンは
①「人間は神により創られた存在であり、神々は命の源である。」
②「人間は神に仕えるために造られた。」人間は神を畏れる者であり、神に対して身を弁えるもの。神は長、人間は神の使用人・奴隷的存在である。
③「運命は神によって定められているものである。」と信じていたため、神の定め(判断)に対して、信じて従うか、不信して反抗するかという判断基準によって裁きを受けると考えられた。
④”罪は、ヒツ(失敗)、アヌ(反抗)、キラツ(罪)という語で表現され、反抗に力点を置いて描写される”ということから、罪とは、「自分本位に生きることを望む気持ち」「神々の怒りを買う行為」であると考えられた。
⑤「罰は病気や不運を通してもたらされる」と考えられていた。それによって、病気や不運は、神を敬わずに自分本位(反抗的)に生きた結果、神の怒りに触れたのだと解釈し、「人間の無意識の罪があること」が必然となり、「人は知らずに罪を犯しうるものだ」という思考パターンが定着した。それによって「原罪」という観念が生まれた。
⑥「悪魔の存在」が信じられていた。それにより、「悪意が存在する」という思考が定着した。悪魔が無数にいる、悪魔は人間だけではなく神をも攻撃すると考えられていた。病気は神による罰という直接的な要因だけではなく、悪魔に原因があると考えられていた。神をないがしろにすれば悪魔が自由にその人に近づき危害を加える。それを退けるために「おまじない」が行われていた。
⑦死者の霊の存在も広く信じられており、いたずらをする存在として認識されていた。そのためお守りが存在し、時には霊のいたずらに対しエクソシストが呼ばれることもあった。
⑧”個人の幸運、病気や悪魔からの守護、社会的成功、才能や個性までもが個人的な守護神に左右されると考えられていた。さらには、個人の経験するすべては個人的な神の身に起こったことの反映であるとさえ考えられた。”個人的な神(守護神)をないがしろにすれば悪魔は自由にその人に近づき危害を加える一方で、神に敬意を払えばその人を良く導く指導者となると考えられた。”これによって「善悪」という対称性的思考パターンや、「罪と罰」「罪を犯せば罰を与えられる」「善と報」「神に善を行えば良く導いてもらえる」という因果論的思考パターンが構築されたと考えられる。
⑨”神との個人的な関係性は、祈りとその神の彫像を慈しむ行為によってはぐくまれるとされており、より緊密な関係を築いたもののために機能するようになった深い尊敬の念と帰依の心、そして超自然的な存在によって古代の信徒の心に喚起された”と解析されている。
次回は、現代に生きる私たちの思考パターンについて、どんな共通性・類似性・異質性があるのかを考察していきたいと思います。おたのしみに!!!
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THINK*思想編*古代思想*メソポタミア神話
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THINK*思想編*古代文明*古代メソポタミア文明シリーズは
THINK=思考・思い・考えの大前提となります
最古の文明*古代メソポタミア時代の人々と
現代に生きる私たちの思考パターンについて
どんな共通性・類似性・異質性があるのかを
考察していきたいと思います。
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次は、メソポタミア神話から思想をみていきましょう!!
メソポタミア神話
*特徴*
- シュメール神話の影響を大きく受けている。シュメール神話は、フルリ人、アッカド、バビロニア、アッシリアの神話、その他の文化に引き継がれた。
- シュメール人、東方セム語アッカド人、アッシリア人、バビロニア人と後に移住してきたアラム人カルデア人の信仰した宗教であり、彼らの共有し、発展させた神話体系である。
- 現代のイラク、クウェート、トルコ南東部、シリア北東部にあたるメソポタミアとよばれる地域で紀元前4千年紀から4200年にわたり支配的な宗教であり続けた。
- 文字の発明までのシュメール神話は口承によって語り継がれてきた。初期のシュメールの楔形文字は記録手段にすぎなかったが、初期王朝時代になると賛歌という形の宗教文学に、そしてナム・シュブと呼ばれるまじないに使われるようになった。
- メソポタミアの多神教は数千年にわたりこの地域の唯一の宗教であり続けたが、その範囲はメソポタミア全域におよび、1世紀から3世紀にかけて徐々に衰退を始めた。
- この衰退は東方教会(アッシリア東方教会、シリア正教会などのシリアック・クリスティアニティ)、そしてユダヤ教、マニ教、グノーシス主義との接触によりもたらされた。その後300から400年もするとほとんどの宗教的伝統は失われた。10世紀ごろの僻地のアッシリア人のコミュニティにこの宗教の最後の痕跡をみることができる
*後の宗教への影響*
- メソポタミアの宗教は後の宗教に多大な影響を与えていると考えられている。その影響はカナン人、アラム人、古代ギリシア人、フェニキア人の宗教、さらにユダヤ教、キリスト教、マンダ教、イスラム教などの一神教にも及んでいる。
- アッシュールは4世紀まで信仰の対象となっていたことがわかっている。
- メソポタミアの多神教では、2100の神々が信仰を集めていた。多くの神々はそれぞれの都市や国と関係付けられている。それらには例えばシュメール、アッカド、アッシリア、アッシュール、ニネヴェ (メソポタミア)、ウル、ウルク、マリ、バビロンといった都市があげられる。
- 特に重要な神々としてはアヌ、エンキ、エンリル、イシュタル(アスタルト)、アッシュール(Ashur)、シャマシュ、シュルマヌ(Shulmanu)、タンムーズ、アダド(Adad)或いはハダド(Hadad)、シン、クル、ダゴン、ニヌルタ、ニスロッチ(Nisroch)、ネルガル、ティアマト、ベル、マルドゥクがあげられる。
- ジャン・ボテロ(Jean Bottéro)など、歴史家の何人かはメソポタミアの宗教が世界最古の宗教であると主張している。最古の宗教に関しては議論があるが、メソポミアが文字発祥の地であるため少なくともとも文字に残されたものとしては最古の宗教であるといえる。
- メソポタミアの宗教に関してわかっていることはすべて、この地域で考古学的に発見された品々、特には文献に由来する。それらは通常楔形文字で粘土板に著され、神話が主題のものもあれば宗教儀式に関するものもある。古代文明にはよく見られることだが、耐久性のある素材、貴重な素材で造られたアーティファクトは、それがゆえに後代まで残ることになったとも考えられるのだが、たいていの場合信仰や儀式にまつわる品々である。ある学者はメソポタミアの人々について、「彼らの残したほとんど全てから彼らの宗教に関して知ることができる。すっかり信仰に染まった人々であったのであろう」と主張している。
- アッシリア(ジャズィーラと呼ばれる地域)のいくつかの孤立したコミュニティを除けば、およそ400年頃にメソポタミアの宗教は消滅している。
- メソポタミアの宗教は旧約聖書を通じて現代の世界に支配的な影響を与えているといえる。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、マンダ教に見られる旧約聖書由来のストーリーは、初期のメソポタミアの神話をベースにしている可能性が指摘されている。とくに創造神話、エデンの園、大洪水、バベルの塔、そしてニムロドやリリスといった人物にその類似性が顕著である。加えてモーセの出自に関してはサルゴンとの類似性が、モーセの十戒はアッシリア、バビロニアの律令との類似性が指摘されている。さらには現代のネオペイガニズムにもメソポタミアの神々に対する信仰を説くものがある。
【1】創造神話
-
シュメール神話では、原初のアンとキがエンリルを生み出す。エンリルは後にシュメールのパンテオンのリーダーとなった。大気の女神ニンリルをレイプする目的で他の神々がエンリルをディルムンから追い出すと、ニンリルは月の神ナンナを儲けた。ナンナはニンガル(Ningal)との間に戦争と豊穣の神イナンナ、そして太陽の神ウトゥ(Utu)を儲けた。
【2】神話におけるメソポタミアの宇宙観
- シュメール人は世界を閉じたドーム状で、その外には原初の海が広がっていると考えていた。ドームの基礎をなす地表の下には地下世界とアプスと呼ばれる淡水の海が広がっていると考えていた。ドーム状の空を司る神はアン(An)、地上の神はキと呼ばれた。原初の海はナンムと呼ばれ、シュメール・ルネサンス(ウル第三王朝)の中でティアマトと呼ばれるようになった。
- 紀元前1200年頃に書かれた創造の叙事詩では神、マルドゥクが母なる神ティアマトを殺し、その半身を使い地上を作り、残りの半分から楽園 (宗教)(šamû)と冥界(irṣitu)を創ったとされている。
- 同時期に書かれた別の文献には、宇宙は回転楕円体で、神々と星の住まう3層の楽園とその下の3層の地上からなると描写されている。
- 多神教のメソポタミアの宗教は様々な神々の存在を許容した。
- 一方で単一神教としてそれぞれの信者集団がそれぞれ特定の神をより優れたものとして信仰した。これらの集団は大抵の場合都市あるいは都市国家ごとに形成され、それぞれの都市の守護神を信奉した。例えば神エンキは都市エリドゥ、アッシュールはアッシュールまたはアッシリアそのものの、エンリルはニップル、イシュタルはアルビール、マルドゥクはバビロンの守護神と考えられた。
- メソポタミアにどれだけの神が存在したのかは分かっていないが、タルクヴィスト(K. Tallqvist)は彼の著書の中で今日知りうる限りではおよそ2400の神々が存在したとしている。
- その中の多くはシュメールの名を持っている。シュメール語では神々はディンギルと呼ばれ、一方アッカド語ではイル(ilu)と呼ばれていた。この2つのグループはお互いの神に寛容で、お互いにそれぞれの神を取り入れあっていた。
-
BC24世紀のシュメールへのサルゴンの侵入に先立って、北部メソポタミアではシュメール人とセム語族のアッカド人との間に言語的文化的な交流がいく世代にもわたり続いた。シュメールの神話と宗教的習慣とアッカド文化は急速に統一されてゆき、その中でアッカドの宗教体系のほとんどは失われたと考えられている。シュメールの神々はアッカド人の中に受け継がれ、その中で発展した。それらのうちの一部は実質手つかずのまま後のバビロニアやアッシリアの時代まで残った。たとえばシュメールの神アンはアッカドではアヌになり、シュメールのエンキはエアとして受け継がれている。シュメールのニヌルタとエンリルはアッカドのパンテオンの中でもほぼ同様の役割を果たすと考えられる。
-
BC17世紀にはバビロニア系のアムル人が南部メソポタミアに勢力を築いた。古バビロニアの時代、シュメール語とアッカド語は宗教的な目的で保存された。現在の歴史学者たちが目にする大部分のシュメール神話は古バビロニアの時代に由来している。 すなわちバビロニア版のギルガメッシュ叙事詩に代表されるようなシュメール語の文献の写本と、エヌマ・エリシュのようなシュメールやアッカドの影響を受けたバビロニア神話である。シュメール、アッカドのパンテオンにも手が加えられた。その変更は最高神マルドゥクの登場に顕著である。シュメール女神イナンナもまた古バビロニアの時代にイシュタルへと置き換えられた。
-
紀元前1200年までのいずれかの時点でフルリ人はアッカドの神アヌを彼らのパンテオンに取り込んだ。アヤ(アッカドのエアに相当)シャウシュカ(アッカドのイシュタルに相当)や、バビロニア時代をへて劇的に変化したニンリルなど、アッカドの神々をフルリ人のパンテオンに取り込んだと考えられる。
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シュメール神話のうちのいくつかのエピソードは中東の宗教のなかに類似がみられる。たとえば旧約聖書のノア と洪水の話はギルガメッシュ叙事詩に語られるシュメールの大洪水との類似性が指摘される。ユダヤ教の冥界シェオルの描写は、女神エレシュキガルの統べるシュメールの、そしてエレシュキガルの配偶神とされるネルガルの統べるバビロニアのキガルによく似ている。サミュエル・ノア・クレイマー(Samuel Noah Kramer)はシュメールやアッカドのことわざと後のヘブライのことわざの類似性を指摘している。これらことわざの多くは箴言に見ることができる。
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記録上シュメールは紀元前2900年をさかのぼることはない。しかしシュメールの文明は紀元前4500年から4000年の間に興ったと考えられている。紀元前3000年紀、最初期のシュメール文学にはアヌ、エンリル、ニンフルサグ、エンキの4柱の神々が登場する。この神々はときにお互いにちょっかいを出し合ってはいるが、協力して創造を行った。たくさんのシュメール神々のリストがいくつか見つかっている。神々の序列やそれぞれの関係は楔形文字の粘土板の解読の中で調べられている。
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シュメールではもともと擬人観を通した多神教が信仰されていた。かれらは宇宙や地上の自然の力に神々を見ていた。その神々は紀元前3千年紀の間に人間中心主義的な側面を持つようになり、自然の神々はそれぞれの都市の神となった。エンキやイナンナのような神々はその地位、力、知識を、天の神アンや最高神エンリルから授かったという見方が定着した。
この世界観のシフトは近隣のアッカド帝国の宗教や、シュメールの都市国家間で頻発するようになった軍事的争いによるものだと考えられている。神々に授けられた権力を、都市国家や神官から権力を与えられたルガル(王)と重ねていると見ることができる。
- メソポタミアの神々にも擬人観を見ることができる。人間らしさを持ち、したがって人の姿を持っている。人間と同様に飲食を必要とし、お酒もたしなむ。結果として急性アルコール中毒に悩まされることもある。
- 人間よりも高次の存在と捉えられていた。人間よりも力強く、全知なる存在であり、人間には計り知れない存在であり、なりよりも不死である。
- 人との違いという点では、神々の持つメラム(melammu)と呼ばれる後光が最たるものと言える。メラムは神々を包み込み、見た者に畏怖と尊敬の念を抱かせる。
- 神々の多くはそれぞれ血縁関係にある。これは他の多神教においてもしばしば見られる特徴である。
- 歴史家のボテロ(J. Bottéro)は、メソポタミアの人々は神秘主義的に神々を見ていたのではなく、かといってあこがれ、敬慕する存在というのでもなく、従うべき、畏れるべき自分たちの主人として見ていたと述べている。
- メソポタミア人の名前には貴賎に関わらず神々の名前を含むものが多く見られる。この習慣は紀元前3000年紀にシュメール人から始まり、後にはアッカド人にも取り入れられた。
-
大部分のシュメールの神々はアヌンナ(Anunnna、アヌの子孫たちの意)に分類される。一方でエンリル、イナンナを含む7柱の神々はアヌンナキ(アヌの子孫たち+キ)とよばれる「地上、冥界の審判者」に分類される。ウル第三王朝の頃、シュメールのパンテオンには60の60倍、すなわち3600の神々が存在するとされた。
- 初期の段階ではパンテオンに序列は存在していなかった。しかし後にメソポタミアの神学者たちは神々に重要度に応じた序列をつけた。560に及ぶシュメール語で書かれた神々のリストがファラ(Fâra)とテル・アル・サラビク(Tell Abû Ṣalābīkh)で見つかっている。およそ紀元前2600年ごろのものと見積もられている。その中では5柱の基本的な神々が特に重要な存在として位置づけられている。
- これら初期のメソポタミアの中で特に重視されていたのがエンリルである。シュメール人の宗教観ではエンリルは神々の中の王であり、世界の支配者として扱われていた。そして後にはアッカド人にも取り入れられた。エンリルに近い役割を持つシュメールの神アン(An)もアッカド人に取り入れられ、アッカド人の間ではアヌとして信仰された。シュメールのエンキはアッカド人にもエンキとして取り入れられたが、後にエア(Éa)と名前を変えている。同様に月の神ナンナはアッカドではシンに、太陽の神ウトゥ(Utu)はアッカドではシャマシュに名前を変えている。女神ではシュメールの性と戦いの神イナンナが特に重視された。後に紀元前18世紀ごろ、南メソポタミアでバビロニアの影響力が増すとハンムラビはそれまで注目されることの無かったマルドゥクをアヌ、エンリルと並ぶ最高位の神とした。
- メソポタミアの宗教の中で今日まで残った重要な神話としてギルガメシュ叙事詩があげられる。この叙事詩では英雄ギルガメシュ王と彼の無二の親友、野人エンキドゥの物語、そして神々の思惑が複雑に絡み合う不老不死を求めたギルガメシュの旅が語られている。
THINK*思想編*古代思想*古代メソポタミアの宗教
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THINK*思想編*古代文明*古代メソポタミア文明シリーズは
THINK=思考・思い・考えの大前提となります
最古の文明*古代メソポタミア時代の人々と
現代に生きる私たちの思考パターンについて
どんな共通性・類似性・異質性があるのかを
考察していきたいと思います。
古代メソポタミア文明・歴史についてはこちらをごらんください。
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次は、古代メソポタミアの宗教から思想をみていきましょう!!
メソポタミアの宗教
【1】シュメールの信仰
- 文字の発明までのシュメール神話は口承によって語り継がれてきた。初期のシュメールの楔形文字は記録手段にすぎなかったが、初期王朝時代になると賛歌という形の宗教文学に、そしてナム・シュブと呼ばれるまじないに使われるようになった。
- 建築は、初期のシュメールの都市国家では寺院は一段高い場所に造られた小さいワンルームの物件だった。その後初期王朝時代に複数の部屋とテラスを持つようになった。シュメール文明が衰退するころにはジッグラドがメソポタミアの宗教の寺院様式としてふさわしいものとされるようになる。寺院は文化、宗教、政治の中心として機能し、およそ紀元前2500年ごろにルガル(軍事的コンテクストを背景に持つ王)が生まれると政治と軍事の中心は宮殿に分けられた。
- ルガルの登場まで、シュメールの都市国家はエン(神官)の組織による事実上の神権政治が行われていた。神官たちは都市国家の文化、宗教の維持を担っていた。彼らは人と自然の力とを繋ぐ媒介者と考えられていた。神官は寺院に住まい、都市の存亡を左右する大規模な灌漑事業を含む都市国家の諸問題に取り組み、統治を行った。
- 宗教行事は、ウル第三王朝時代、シュメールの都市国家ラガシュは62名のラメンテーション・プリースト(ラメントを行う神官)を雇っており、それぞれには合唱団と楽団があわせて180名ついていたといわれている。
【2】アッシリアの政治に見られる宗教
- メソポタミアに興った多くの都市国家や王国同様、元来アッシリアは君主制ではなく寡頭制をとっていた。権威はその都市に帰属し、政体は3つの統治機関を有した。すなわち長老院、世襲の支配者、エポニムである。
- 支配者は長老院を取り仕切り、その決定を執行する。この支配者はアッカド語でいわゆる王を指す言葉(šarrum)では形容されない。アッシリアにおいて「王」は都市の守護神であるアッシュール(Ashur)のための言葉であり、支配者はその大祭司である。支配者は「アッシュールの執事(iššiak Assur)」と呼ばれ、この執事という語はシュメール語のエンシ(Ensí)から借用された。3番目の統治機関、エポニム(limmum)はアテネのアルコンや執政官に似た役職で、毎年くじによって選ばれ彼の名はその年の呼び名になった。
- 初期のアッシリアに見られたこのエポニムの制度、アッシュールの執事の習慣は、その後も儀礼的な痕跡としてアッシリアの君主制の中にずっと生き続けた。
【3】ネオ・アッシリア帝国の宗教
- ネオ・アッシリア帝国の宗教はアッシリアの王を中心に展開される。この時代、王権は神権(the idea of divine mandate)の考え方とよくリンクしている。
- アッシリアの王は、神と同一視されていたわけではないが、主神アッシュールの第一の僕と考えられていた。すなわち司祭が、神々は現在の支配者に満足している、と人々を納得させていられる限りにおいては、王の権威は絶対的であった。
- アッシュール(都市)とその周囲に住んでいたアッシリア人にとってこのシステムはとても自然で、逆にアッシリアの支配に置かれた民族、特に小さい都市国家に暮らす人々にとっては斬新なシステムであった。
- やがてアッシュールはローカルな都市の守護神から、広大なアッシリア帝国の主神へと大出世を果たす。その範囲は北はコーカサス、アルメニアから南はエジプト、ヌビア、アラビア半島まで、西はキプロス、地中海東部から東は中央イランに及んだ。
- 青銅器時代後期からアッシュールの守護神であったアッシュールは常にバビロンの守護神マルドゥクとライバル関係にあった。アッシュールへの信仰は肥沃な三日月地帯の大部分にまたがり、アッシリアの王はこのアッシュールの民に忠誠を要求することができた。
【4】アケメネス朝の宗教
- 紀元後1世紀になるとキリスト教が徐々に定着を始める。そして独立州であるアディアバネ王国、オスロエネ(Osroene)、アッシュール、ハトラ、パルミラではキリスト教、ユダヤ教への改宗者が大部分を占めるようになる。グノーシス主義、サービア教、そして現代にも残るマンダ教も人気を集めるようになった。そんな中でもメソポタミア土着の信仰は庶民の間に残り、アッシュール、シン(Sin)といった神々は少なくとも紀元後4世紀まで信仰を集めていた。
- 3世紀になると、キリスト教、ユダヤ教、仏教、ゾロアスター教、そしてメソポタミア土着の要素を統合させたマニ教が生まれた。これは新たなメソポタミア土着の宗教といえる。
- アッシュールの都市には14世紀のティムールによるアッシリア東方教会の虐殺が行われるまで人が居住していた。そしてアッシュールへの信仰は少なくとも17世紀までハッラーン周辺に残っていたという証拠が見つかっている。
- アッシリアはメソポタミア・キリスト教(Church of the East、古代のネストリウス派)の中心地となった。これは旅僧を通して近東から中央アジア、インド、モンゴル、中国まで広がり、今日にいたるまでアッシリア東方教会、カルデア・カトリック教会(Chaldean Catholic Church)、アンシエント・チャーチ・オブ・ザ・イースト(Ancient Church of the East)として残っている。サービア教、マンダ教など、さまざまなグノーシス主義の宗派も発展した。
- 7世紀のアラブ・イスラミック・コンクエストの中でアッシリアは崩壊した。この後の数世紀の間にメソポタミアはアラブ人、クルド人、テュルク系民族など非土着の民族、主にイスラム教徒の流入を経験する。土着のエスニシティ、文化、習慣、宗教、言語をもったアッシリア系メソポタミア人は、この後700年の間に徐々にマイノリティへと追いやられていった。そして14世紀、ティムールによりアッシリア人の虐殺を経てアッシュールが放棄されるとアッシリア人のコミュニティは表舞台から姿を消した。
- しかし現在も、新アラム語は、さまざまな虐殺を生き抜きアラブ化に抵抗した人々、全メソポタミアの5パーセントを占める人々の間で話されている。彼らはモダン・アッシリア人と呼ばれるキリスト教徒であるが、独自の言語、新アラム語(紀元前1200年のメソポタミアで話されていた言語に起源を持ち、アッカド語からの数百に及ぶ借用語と文法構造を受け継いでいる言語)を持ち、エスニック・アイデンティティを持ち、子供には例えばアッシュール、シャマシュ、セミラミス、、ラマス(Lamassu)、センナケリブ、ハダド(Hadad)といった古代からの名前を使う習慣を残している。そして同様に古代の神々の名前にちなんだ月を持つアッシリア暦を用いる。現代のアッシリア暦は都市、アッシュールが同名の神に捧げられた紀元前4750年に起源を持つ。
【7】公共の信仰
- メソポタミアの街は神々の家と考えられており、それぞれの街には対応する守護神が定められていた。
- 廟に関しては郊外に造られることもあったが、知られているかぎりすべての神殿は街の中に造られた。
- 神殿は建材として煉瓦が用いられ、ジッグラトとして建てられた。ジッグラトは空にそびえる階段状のステージと形容することができる。ジッグラトの持つ意義は、神々が天国と地上を行き来するための階段を象徴しているという見解で概ね統一されている。そのため、実際には神殿の上の方で儀式を行うこともあったようではあるが、神殿の全体が巨大な祭壇であると見ることができる。他には、神殿を死んだ神がよみがえるまで埋葬されるとされる宇宙の山と見立てる説もある。例えばエリドゥにあるエンキの神殿など、いくつかの神殿には果樹園があり、そのなかに一本の聖なる木(Kiskanu)が存在した。この聖なる木は庭師マスターの役割を担う王が執り行う儀式の中心地となっていた。
- メソポタミアの神殿はもともと神の住まう場所として建てられた。神々はそこで街や王国のための裁定を行うと考えられていた。
- 神々の存在は聖像に象徴され、聖像は独立した部屋に安置された。 聖像の中に神を宿すという考え方は、神を存在させる手段として理論立てられていたようである。 これはエッラの詩(How Erra Wrecked the World)からも明らかである。この話の中でエッラはマルドゥクをだまして聖像から追い出している。聖像は夜を通して行われる儀式によって清められ、命を吹き込まれる。そして口が開かれ洗われる。これにより神々は見、そして食べることができるようになる。聖像に神が満足すればその神が宿ることになる。これら聖像のために時には余興が催され、また狩に連れ出されることもあった。
- 神殿には神のための居住空間が設けられ、キッチン、台所用品、寝室、神の家族のための部屋が用意された。中庭には来客者用が体を清めるための溜池とそしてチャリオットを引く馬や家畜のための小屋まであった。
- 一般的に奉仕(dullu)により神は良い状態を保つことができると考えられていた。聖像は着飾られ、日に2回の饗宴が催された。神の食事中はカーテンがおろされた。これは王が食事の様子を大衆の目に晒してはならないという習慣と同様である。ときには王が神の相伴に与ることもあった。同様に神官たちが同席することもあったであろうと考えられる。神はお香を楽しむものだと考えられており、聖像の前ではお香が焚かれた。
- 日常的に供物が捧げられ、人間の生贄の代替品(pūhu)、あるいは代用品(dinānu)として動物が捧げられた。これらの習慣には神々や悪魔の怒りの矛先を生贄へとそらす目的があった。それぞれの神ごとに特別な日取りが設けられており、それぞれの儀式が執り行われ、供物が捧げられた。多神教のメソポタミアでは毎日が何らかの神を祝う日となっていた。
- 王は理論上は宗教指導者(enuまたはšangū)としての役割を担っており、たくさんの専門的な神官とともに神殿の中で様々な神事をこなした。
- 神官らは人と神を結びつける媒介者として、それぞれの役割を負った。すなわち監督を担うもの(šešgallu)、悪魔や魔術師による人の蒙った穢れを清めるもの(āšipu)、神殿を清めるもの(mašmašu)、音楽によって神の怒りを鎮めるもの(kalū)、そして女性の歌手(nāru)と男性の歌手(zammeru)、技術者(mārē ummāni)、帯剣したもの(nāš paṭri)、占い師(bārû)、告解者の(šā'ilu)、そしてその他である。
【8】個人の信仰
- 個々の人々はそれぞれ個人的な神(a personal deity)に敬意を払っていた。他の神々と同様個人的な神々も時とともに性格を変え、また名前が与えられたり描写されることも稀なので初期の実情に関しては不明な点が多い。
- 紀元前3千年紀の中ごろ、何人かの支配者は特定の神、あるいは神々を個人的な守護神としていた。紀元前2千年紀には個人的な神が大衆によりそったものとなった。
- 個人的な神との関係は祈りとその神の彫像を慈しむ行為によってはぐくまれるとされており、より緊密な関係を築いたもののために機能するようになった。
- 古代メソポタミアのいくつもの祈りの詩が資料として今日まで残っており、それぞれの祈りには特定の神を特別に賞揚する内容が見られる。
- 歴史家のボッテロ(J. Bottéro)はこれらの詩は、深い尊敬の念と帰依の心、そして超自然的な存在によって古代の信徒の心に喚起された圧倒的な感情を表している、と述べている。一方でこれらの詩からは、手放しに神々を褒め称えているというよりもむしろ、畏れを含んだ感情を読み取ることができる。
- 個人の幸運、病気や悪魔からの守護、そして社会的成功、才能や個性までもが彼らの個人的な神に左右されると考えられていた。さらに踏み込んで個人の経験するすべては彼の個人的な神の身に起こったことの反映であるとさえ考えられた。もしも個人的な神をないがしろにすれば悪魔は自由にその人に近づき危害を加える。一方で敬意を払えば彼を良く導く指導者となると考えられた。
- メソポタミアでは悪魔の存在が信じられており、それらを退けるために庶民の間でもおまじない(šiptu)が行われていた。
- 実際にはシュメール語にもアッカド語にも「悪魔」を表す一般名詞は存在せず、害をなす者、危険な者、あるいは力とだけ言及され、そして世界に「悪意」が存在するということを説明する手段として用いられる。悪魔は無数に存在し、神々をも攻撃の対象とすると考えられていた。
- 悪魔とは別に死者の霊(etimmu)の存在も広く信じられており、いたずらをする存在として見られていた。そのためお守りが存在し、時には霊のいたずらに対しエクソシスト(āšipuあるいはmašmašu)が呼ばれることもあった。
- 病気は悪魔に原因があると考えられ、おまじないや儀式が、ときには類感呪術が治療のために行われた。悪魔の像を用いて捕縛するという試みも行われていた。患者の頭の上に悪魔の像を置く。すると悪魔は像の方へ移ると考えられており、儀式の後に像が破壊された。守護精霊の像も作られており災厄を退けるために門に飾られた。
- 占いもまた庶民の間で広く行われていた。メソポタミアでは運命は神々によってすでに定められており、予兆の観察や占いにより運命を確かめることができると考えられていた。神々は口述に拠らない形での「言葉」(amatu)や「命令」(qibitu)により彼らの意思を伝えるものとされ、それらは出来事や事件に向かう一連の流れのなかに現れるものと考えられていた。占いには様々な手段が用いられた。水に浮かぶ油を読む占い(lecanomancy)、生贄の内臓を読む占い(extispicy)、鳥の振る舞いを読む占い(augury)、天体的な自然現象を読む占い(占星術、astrology)、夢を読む占い(夢占い)などが例として挙げられる。
- これらの占いには2種類の神官が携わった。すなわち質問者(sa'ilu)と観察者(baru)である。彼らより身分の低い神官であるマフ(mahhu、恍惚状態で言葉を伝える)が関わることもあり、これには魔術が用いられていた。
【9】道徳・美徳・罪
- 古代のペイガニズムは、道徳よりも義務や儀式に焦点を当てることが多いが、メソポタミアの場合、今日まで残った祈りの詩や神話の中から数々の一般に受け入れられていた道徳を拾い集めることができる。
- メソポタミアでは、人は神により造られたものとされ、神々は命の源であり、したがって神々は病気や健康、人の運命さえも左右する力を持つと信じられていた。子供は神からの贈り物と考えられていたことが個人の名前から伺い知ることができる。
- 人は神々に仕えるものとして造られた。すなわち神は長(belu)で人は使用人或いは奴隷(ardu)であり、人は神を畏れる(puluhtu)者であり神に対して身を弁えるものと考えられていた。
- 義務は宗教、儀式の主要な特性と考えられていた。場合によっては祈りの詩からは精神的に親密な関係が読み取れることもあり、または信仰する神から別の神へ乗り換えるちょっとした改宗のようなことが行われている様子も伺える。一般的に神々への信仰に対する対価は成功や長寿といった形で現れる。
- 一方で罪はヒツ(hitu、失敗)、アヌ(annuまたはarnu、反抗)、キラツ(qillatu、罪)という語で表現され、反抗に力点を置いて描写される。 罪とは「自分本位に生きる(ina ramanisu)」ことを望む気持ちである、という文脈から語られることもある。罪とは神々の怒りを買う行為であると説明されることもある。
- 罰は病気や不運を通してもたらされると考えられており、必然的に無意識の罪が語られ、人は知らずに罪を犯しうるものだという考え方が存在した。賛美歌には具体的な罪が登場することは稀である。
- この報いの考え方は個人にとどまらず国や歴史にも当てはめて考えられた。メソポタミアの文学からは戦争や自然災害が神からの罰として扱われている様子を、また王がこれらを判断の基準として使う様子を伺うことができる。
- 罪や美徳の捕らえかたに関してイスラム教やユダヤ、キリスト教との類似性が見られる。
- 性に関してはかなり寛容な考え方を持っていた。ことバビロンでは自由な性の表現が文明によってもたらされる恩寵と捉えられており、同性愛、異性装、そして娼婦、男娼が受け入れられていた。メソポタミアで広く信仰されたイナンナ/イシュタルには、荒々しく熱狂的な舞踏と血なまぐさい儀式を伴う、性的逸脱の祭祀が捧げられていた。ここで言う「性的逸脱」には、身体的なものと社会的なものとの両方を含む。「イナンナに禁じられているものは何もない」と考えられ、規範的な性の在り方を侵犯する表現を祭祀の中で、敢えて行うことによって、「人目を気にしている日常の世界から、忘我の境地・恍惚の世界へ」と至ることができると信じられていた
【10】死後の世界
- 古代メソポタミアの人々は死後の世界は、この世界の下に広がっていると信じていた。アラル(Arallû)と呼ばれたり、ガンゼル(GanzerあるいはIrkallu、偉大な地下の意)と呼ばれたりと不定であるが、社会的地位、生前の行いに関わらず死んだ者はみなそこへ行くと信じられていた。
- キリスト教のヘル(地獄)とは違い、メソポタミアの冥界は罰でも報いでもなかった。
- 冥界でも生前と同じ状態ですごしているというわけではなく、死者は非力な幽霊として扱われる。イシュタルの祖先が冥界へ行く神話では塵が彼らの食べ物、粘土が彼らの栄養であり、暗闇に暮らし、光を見ることはない、と語られる。いくつかの神話、たとえばアダパ(Adapa)の神話などでは、おろかさのためにすべての人間は死を免れない。永遠の命は神々のみが所有する、と語られている
【11】終末論
メソポタミアの終末論を持っていたとする推測は、大部分がベロッソスの著述によるもので、彼は、メソポタミア人は世界が12のサー(sar、3600年)を12回繰り返すと信じている、と記述している。つまりメソポタミア人の少なくとも一部は世界は518,400年で終わりを迎えると信じていたことになる。終末の後に何が起こるかに関してはベロッソスは書き残していない。
次回は、THINK*思想編*古代思想*メソポタミア神話から思想をみていきます!
おたのしみに♪
THINK*思想編* 古代思想*古代メソポタミア文明
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やすねえ♥アテンダー こと 小林安子です
新シリーズTHINK*思想編*古代文明*古代メソポタミア文明は
THINK=思考・思い・考えの大前提となります
最古の文明*古代メソポタミア文明時代の人々と
現代に生きる私たちの思考パターンについて
どんな共通性・類似性・異質性があるのかを
考察していきたいと思います。
まずは、古代メソポタミア文明の歴史からみていきましょう!!
古代メソポタミア文明
- 古代メソポタミア文明‥紀元前3500年前ごろにメソポタミアに生まれた複数の文明を総称する呼び名。世界最古の文明とされてきた。文明初期の中心となったのは民族系統が不明のシュメール人。
- メソポタミア…チグリス川とユーフラテス川の間の沖積平野。現在のイラクの一部。
-
地域的には、北部がアッシリア、南部がバビロニアで、バビロニアのうち北部バビロニアがアッカド、下流地域の南部バビロニアがシュメールとさらに分けられる。
- 南部の下流域であるシュメールから、上流の北部に向かって文明が広がっていった。土地が非常に肥沃で、数々の勢力の基盤となったが、森林伐採の過多などで、上流の塩気の強い土が流れてくるようになり、農地として使えない砂漠化が起きた。
- 古代メソポタミアは、多くの民族の興亡の歴史である。 例えば、シュメール、バビロニア(首都バビロン)、アッシリア、アッカド(ムロデ王国の四つの都市のひとつ)、ヒッタイト、ミタンニ、エラム、古代ペルシャ人の国々があった。古代メソポタミア文明は、紀元前4世紀、アレクサンドロス3世(大王)の遠征によってその終息をむかえヘレニズムの世界の一部となる。
*特徴*
- チグリス・ユーフラテス両河は水源地帯の雪解けにより定期的に増水するため、運河を整備することで豊かな農業収穫が得られた。初期の開拓地や文化から始まり、エジプトなどよりも早く農業が行われた地域として知られている。
- 先史時代BC6000~5300年頃北メソポタミアで興ったハラフ文化では、乾燥地農業が行われ、家畜も飼育していた。BC5000~4000年頃南メソポタミアから大きく広がったウバイド文化では運河網が広がり、灌漑農業や家畜の飼育が定住性の集落に広がり、急速な都市化がおきて交通網が伸展していた。
- ジッグラトと呼ばれる階段型ピラミッドを中心に、巨大な都市国家を展開した。
- 農耕の面でも肥沃な大地・整備された灌漑施設・高度な農耕器具により単位面積当たりの収穫量は現代と比較しても見劣りしなかったという。
- 旧約聖書との関連も指摘されており、始祖アブラハムはメソポタミアの都市ウルの出自とされている。エデンの園はメソポタミアの都市を、バベルの塔はジッグラトを、ノアの洪水は当地で突発的に起こる洪水を元にした逸話との説がある。
- 暦は太陰太陽暦を用い、1週間を7日(7曜)にしたのも彼らといわれる。暦と共に占星術(天文学の雛形)も発達し、「可ルデア人の智恵」と呼ばれた(カルデアはメソポタミア地域の別名)。
- 時間の単位 六十進記数法もメソポタミアで生まれたものであり、現在も用いられている。
- 金属の鍛錬も知っていたとされている。
-
文字は象形文字を発展させた楔形文字を創始し、後世の西アジア諸国のさまざまな言語を表すのに利用され、記録媒体は粘土板が用いられた。楔形文字によって書かれたものとしてはハンムラビ法典がよく知られている。ミタンニのアッカド語は外交用語として用いられ、エジプト第18王朝の外交文書(アマルナ文書)に、その言葉で書き記されたものが残っている。
-
経済は、貿易の交易範囲は広大で、エジプト文明やインダス文明と交易があったことも推測される。シュメールやバビロニアでは食物をはじめとする必需品を貯蔵して宮殿や都市の門において分配し、バザールで手工業品の販売を行なった。タムカル厶と呼ばれる身分型の交易者が存在し、仲買人、代理人、競売人、保管人、銀行家、仲裁人、旅商人、奴隷取締官、徴税吏などを担当した。バビロニアにおいては対外市場は存在しなかったため、キュロス2世は、ギリシア人の市場制度を理解せず、非難した。また、ハンムラビ法典には、損害賠償、負債取り消し、報酬、等価概念についての記述がある。
*歴史*
- メソポタミアの人々は2つのグループからなっている。東方セム語派のアッカド人と孤立した言語を話すシュメール人である。(アッカド人は、後にアッシリア人、バビロニア人として知られるようになる。)
- 彼らは統一国家を持つことはなく、しかし様々な都市国家や王国を形作った。
- まず紀元前4千年紀にシュメール人が現れる。彼らが先史時代に他の地域から移り住んできたのか、この地域にもともと暮らしていたのかはわかってない。彼らはメソポタミア南部、後にシュメールとして知られるようになる地域に定住し、セム族のアッカド人の文化に大きな影響を与えた。
- およそ紀元前3500年頃のものとして、最初のメソポタミアの宗教の痕跡が筆記の発明とともに確認できる。
- 当時シュメール人は驚くほど先進的だった。筆記は言うに及ばず、原始的な数学、車輪、天文学、占星術、法律(タナハ)、組織立てられた医学、先進的な農業そして建築、暦などを発明した。彼らはウルク、ウル、ラガシュ、イシン、キシュ、ウンマ、エリドゥ、アダド(Adad)、アクシャク(Akshak)、シッパル、ニップル、ラルサなどの都市国家を作った。
- 紀元前2800年ころの王のリストにアッカド語の名前が初めて現れる。なおもシュメール・アッカド文化のなかでシュメール人が支配的な影響を持ち続けたが、紀元前2335年にサルゴンのアッカド帝国が誕生する。アッカド帝国はメソポタミアを統一し、アッカド人とシュメール人をひとつの支配のもとに置いた。
- 少しずつシュメールとアッカドの文化と神々の習合がおこり、それに伴い少ない神々を信仰していたアッカド人がシュメールの持ち込んだ神々に重要な役割を担わせるようになった。
- 紀元前2335年頃、サルゴンが全メソポタミアを征服し、アッカド人とシュメール人を世界で最初の帝国に組み入れた。そしてその帝国の支配はイランの歴史、レバント、アナトリア半島、カナン、アラビア半島におよんだ。アッカド帝国は2世紀の間続き、経済の停滞と、内乱、そして北東のグティ人の侵入により崩壊する。
- その後シュメールのウル第三王朝が復活を果たすが長くは続かず、メソポタミアはいくつものアッカド人の都市国家に分裂する。
- 紀元前2100年頃メソポタミア北部ではアッシリアが勢力を盛り返し、南部ではイシン、ラルサ、エシュヌンナをはじめとするいくつもの王国が林立していた。
- 紀元前1894年、小さな都市国家としてバビロンが興る。バビロンは侵入してきた西方セム語派のアムル人の興した都市であるが、彼らの支配したバビロンの歴史の中の短い期間に限られる。
- この後、いずれかの時期にシュメール人はアッシリア・バビロニア社会吸収されてしまい、まったく姿を消す。紀元前25世紀の後半からアッシリア人の王が続いていることが確認されている。彼らはメソポタミア北部とアナトリア半島の一部、そして北東シリアを支配した。
- 紀元前1750年頃、アムル人のバビロンの王、ハンムラビがメソポタミアの大部分を支配した。
- バビロニア帝国はハンムラビ王の死後、アナトリアの山岳民族、カッシートの侵攻を受けて崩壊する。その後カッシートはバビロンを500年支配した。
- ハンムラビ以前の紀元前20-18世紀に覇権を握ったアッシリア帝国がミドル・アッシリア帝国(紀元前1391-1050)として再び権勢を誇る。アッシリアはヒッタイトとミタンニを打ち負かし、エジプト新王国を近東から引き上げさせた。ミドル・アッシリア帝国はコーカサスから現代のバーレーンまで、キプロスからイラン西部までその版図を広げた。
- ネオ・アッシリア帝国(紀元前911から紀元前605)は紀元前10世紀から紀元前7世紀後半にかけて、当時の歴史上最も強力かつ広大な帝国を作り上げた。
- 帝国は西キプロスから東は中央イラン、北はコーカサス山脈から南はエジプトのヌビア、そしてアラビア半島に及んだ。アッシュールバニパル、トゥクルティ・ニヌルタ2世、ティグラト・ピレセル3世、シャルマネセル4世、サルゴン2世、センナケリブ、エサルハドンら皇帝のもと、この帝国の拡大はメソポタミアの文化と宗教を遠方へと広げる一助となった。ネオ・アッシリア帝国の時代にはアラム語が帝国内でリングワ・フランカとしての地位を築いていた。アッカド語で残された最後の記録は紀元後78年に書かれた天文学に関わる文献で、アッシリアで見つかっている。
- バビロンに入場したカルデア人のナボポラッサルが紀元前625年、ネオ・アッシリア帝国に対し攻勢にでる。バビロニア人がメデ人(Medes、イラン系民族)と手を結ぶと、616年にはメディアのキュアクサレス2世がナボポラッサルに同盟を持ちかけた。最終的にバビロニア人、カルデア人、メデ人、キンメリスキタイ人、ペルシア人、キンメリア人の連合軍がネオ・アッシリア帝国を攻撃した。この攻撃の後ネオ・アッシリア帝国は内紛の時代に突入、その後紀元前605年にアッシュール・ウバリト2世が死ぬとこの帝国は滅亡した。
- 新バビロニアはかつて主従関係にあったアッシリアの帝国の大部分を受け継ぎ、その支配の下でバビロンは短い繁栄を誇った。しかし最後の王ナボニドゥスはほとんど政治に興味を示さず、月の神であるシンへの信仰に夢中になり、実権を少しずつ息子のベルシャザルへ譲っていった。加えて東のペルシャとメデ人が勢力を拡大していくと新バビロニアは紀元前539年、アケメネス朝に飲み込まれ、メソポタミア・ネイティブの王朝が途絶えることになった。
- 紀元前539年、メソポタミアはアケメネス朝に征服され、キュロス2世の支配を受ける。これにより3000年に及ぶセム語派メソポタミア人の近東支配は終わりを告げることとなった。ペルシア人は土着の文化、宗教を禁止することはなかった。アッシリアとバビロンは自主独立体として存在し続けたが、カルデアは消滅した。さらにアッシリアに関しては紀元前522年と紀元前482年にペルシャに対する大規模な反乱を起こせるほど力を持っていた。
- 紀元前330年、古代ギリシアマケドニア王国のアレクサンドロス3世がペルシアを打ち破り、メソポタミアを支配した。アレクサンダーが死ぬとセレウコス朝によってヘレニズムの影響がメソポタミアにもたらされた[9]。アッシリアとバビロニアは後にパルティア(バビロニア)、古代ローマ(アッシュリア属州)、サーサーン朝(アシュリスタン(Asuristan))のそれぞれ州となった。バビロニアはパルティアの時代に同化し、アッシリアは残った。
THINK*思想編*西洋思想について(1)
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やすねえ♥アテンダー こと 小林安子です
新5回シリーズは、THINK=思考・思い・考えの大前提となります、
思想編*西洋思想についてを、まずは、考察していきたいと思います。
ぜひ ご一緒に お付き合いいただけたらと思います。
まずは、西洋思想 *[古典古代][中世]を振り返ってみましょう!!
西洋思想
古典古代
- ギリシア神話:古代ギリシアより語り伝えられる伝承文化で、多くの神々が登場し、人間のように愛憎劇を繰り広げる物語で。古代ギリシア市民の教養であり、さらに古代地中海世界の共通知識でもあったが、現代では、世界的に広く知られている。ギリシア神話は、ローマ神話の体系化と発展を促進した。プラトーン、古代ギリシアの哲学や思想、ヘレニズム時代の宗教や世界観、キリスト教神学の成立など、多方面に影響を与え、西欧の精神的な脊柱の一つとなった。中世においても神話は伝承され続け、その後のルネサンス期、近世、近代の思想や芸術にとって、ギリシア神話はインスピレーションの源泉であった。
- 自然哲学:自然の事象や生起の体系的理解・理論的考察。自然を総合的・統一的に解釈し説明する形而上学。
- ソフィスト:主にギリシアのアテナイを中心に活動した、お金を受け取って徳を教えるとされた弁論家・教育者。プロタゴラス、ピッピアス、ゴルギアス、プロディコスなどがいた。
- 無知の知(ソクラテス):古典ギリシャ哲学 論理学 認識論 :神のみぞ知るなど 神々への崇敬と人間の知性の限界(不可知論)を前提とする保守性を過激に推し進め「知ってることと知らないこと」の境界線を巡る、探究心・執着心・節制した態度で賢者たちの無知を指摘していくことをライフワークとして公開裁判で死刑宣告を受け、自ら処刑を受け入れた。
- 哲人政治(プラトン):哲人王はプラトンが中期対話篇「国家」において述べた理想国家の君主である。「第七書簡」でも言及されている。「法律」「政治学」
- 人間はポリス的動物である(アリストテレス):人間は社会的存在であると説いた。
- エピクロス(エピクロス学派):快楽主義などで知られる古代ギリシアのヘレニズム期の哲学者。エピクロス派の始祖。現実の煩わしさから解放された状態を「快」として、人生をその追求のみに費やすことを主張した。エピクロス自身は精神的な快楽を重視して、肉体的快楽をむしろ「苦」と考えていた。
- ゼノン(ストア学派):ストア学派の創始者(ヘレニズム哲学の一学派)破壊的な衝動は判断の誤りから生まれるが、知者「道徳的・知的に完全」な人はこの種の衝動に苛まされることはない、と説いた。
中世
- ユダヤ教:古代の中近東で始まった唯一神ヤハウェを神とし、モーゼの十戒、選民思想やメシア(救世主)信仰などを特色とするユダヤ人の民族宗教。「タナハ」(キリスト教の旧約聖書と同じ書物)が重要な聖典とされる。ただしメシア思想は、現在では一部を除いて中心的なものにはなっていない。
- キリスト教:ナザレのイエスをキリスト(救い主)として信じる宗教。信仰の純粋性(原罪・悔い改め):アダムとイブから受け継がれた罪のこと。罪が全人類に染み渡っていて罪を不可避的にする状態の中に、全人類が誕生して来ることを指すとして理解される傾向がある。創世記3章に記され、教派・思想の違いによる見解の差も小さくない。イエス・キリストが神の国の福音を説き、罪ある人間を救済するために自ら十字架にかけられ、復活したものと信じる。アガペー(博愛主義):キリスト教における神学概念。神の愛に対する「愛」を表す。神は無限の愛(アガペー)において人間を愛しているのであり、神は無限の愛(アガペー)において、人間を愛しているのであり、神が人間を愛することで、神はなにかの利益を得るわけではないので、「無償の愛」とされる。それは不変の愛なので、旧約聖書には「不朽の愛」として出てくる。新約聖書では、キリストの十字架の死において顕れた愛として知られる。福音書(新約聖書):紀元1世紀から2世紀にかけてキリスト教徒たちによって書かれた文書で、『旧約聖書』と並ぶキリスト教の教典)。ミラノ勅令:ローマ帝国コンスタンティヌス1世とリキニウスが連名で配布された、全帝国市民の信教の自由を保護した内容とされる。
- キリスト教神学:キリスト教信仰に関する神学である。キリスト教神学者は、聖書を釈義し、分析し、また、理解を助け、講解し、キリスト教を弁護し弁証する。
神学は神学者にキリスト教の真理をより理解させ、キリスト教と他の伝統を比較し、批判者からキリスト教を守り、教会の改革を助け、伝道を進め、現代の必要に役立てるためにある。
- 教父哲学 三位一体説(アウグスティヌス):キリスト教において「父」と「子(キリスト)」と「聖霊(聖神)」が「一体(唯一の神)」であるとする教え。(古代キリスト教の神学者、哲学者、説教者。ラテン神父とよばれる一群の神学者たちの一人。キリスト教がローマ帝国によって公認され国教とされた時期を中心に活躍し、正統信仰の確立に貢献した教父であり、古代キリスト教世界のラテン語圏において多大な影響力をもつ理論家。)
- スコラ哲学(トマス・アクィナス)哲学は神学の侍女:スコラ学は、11世紀以降に主として西方教会ののキリスト教神学者・哲学者などの学者たちによって確立された、問題に対する解答を導き出し、矛盾を解決する学問のスタイル。スコラ学の最大のテーマは信仰と理性であり、真の意味でのスコラ学は神学にとどまらず、哲学から諸学問におよぶ広いものである。スコラ学の方法論にのっとった哲学をスコラ哲学、神学をスコラ神学という。(中世ヨーロッパ、イタリアの神学者、哲学者『神学大全』で知られるスコラ学の代表的神学者)神学と哲学の関係を整理し、神中心主義と人間中心主義という相対立する概念のほとんど不可能ともいえる統合を図った。
THINK=思考*思い*考え について(5)
やすねえ♥アテンダーのTHINKブログへようこそ!!
4Cアテンダー ♥ 心で生きる♥ Life Style案内人
♥無意識を意識化して♥心路を開拓する♥人間の無限の可能性開拓
やすねえ♥アテンダー こと 小林安子です
[THINK=思考・思い・考え について]の大前提
5回シリーズ で、今回(5)最終回です。
今回は、個人の考えのパターンをつかみ、
無意識・潜在意識と、集合無意識・魂・阿頼耶識の、
全体の無意識を意識化して統合することで、
具体的にどんなメリット・デメリットがあるのか
お伝えしていきますね!!
THINK=思考*思い*考え について(1)
THINK=思考*思い*考え について(2)
yasuneeattender.hatenablog.com
個人それぞれの背景の違いでできる個人の考えのパターンは新認識論・新存在論的整理で、相対世界から絶対世界まで解いて、全体的に統合して、シンプル化して、コンサルとトレーニングを通して、習慣化して、パーソナライズ化して、使えるようにできます。
コンサルでは、段階的にパーソナルセッションを受けていくことと、その整理方式の観点を使って、アウトプットを何度も繰り返しおこなっていくうちに、やがて仕組み(構造)の明確な理解が伴い、クライアント本人も、自分自身をアテンド(ガイド・案内)の技術の体得ができるようになります。
●私たち人間の本来の「考えの出発」は 疑問・質問(Q)の発見です。(2パターン)
●私たち人間の本来の「考えの方向性」追求する目的(FOR)
【私たち人間の本来の「考えの出発」 2パターンの疑問・質問】
①人間は 何なのか?自分は何なのか?(WHAT)
なぜ、どのように生まれたり死んだりするのか?(WHY)
②人間が認識する宇宙が何なのか?(WHAT)
どんな素材(仕組み・原因)で、存在が成り立っているのか?(B
この仕組み・原因が明確に理解できて、この疑問・質問の答えを得た時に、初めて、人間を理解できたと言えます。そして、人間本性を発揮させて生きることをトレーニングすることで、技術として自由自在使えるようになります。これが、人間の可能性開拓ができる状態です。すべてが統合できた人間の可能性は計り知れないものです。本来の可能性そのものであるみなさんと出会っていただきたいです。
では、具体的にはどのようなメリット・デメリットがあるのかというということですが
【メリット】
- 必要に応じたアイデンティティの変化ができるようになる
- モチベーションUPやエネルギー生産ができるようになる
- 自己絶対肯定ができるようになる
- 感動認識センスが開拓できる
- 創意あふれる魅力を獲得できる
- イメージ力が発達する
- 表現が自然になる
- 表現力が豊かになる
- 傾聴力がUPする
- コミュニケーション力がUPする
- リセット力がつく
- 人間力がUPする
- 人間関係力がUPする
- 心が軽くなり、大自由になる
- 思い込みや、決めつけが減る
- 考えと感情の解離が統合できる
- 他人に惑わされずに 意思決定ができるようになる
- 感情の麻痺が解ける
- 慌てたり、焦ったりしにくくなる
- 人間の無限の可能性を確信する
- 協力関係を創りやすくなる
- 破滅的な無駄な考えが減る
- 自己否定や他人否定ができなくなる
- 他人への恨みの感情が解ける
- 人生に希望が持てるようになる
【デメリット】
- 思い込みや、決めつけをした時に違和感を感じるようになる
- 長年溜め込んできた深い深い念や 怨念などの感情が解けて 意識化されるので、出てくるときに眠くなったり、よく眠れたり、一時的に体がだるくなったり、疲労感が出ることがある(寝て起きたら、頭や体はスッキリ軽くなります)